日時:2018年2月10日(土)10:00~13:00
見学場所:谷口吉生《雪谷の家》、室伏次郎《北嶺町の家》(内部見学)、中村好文《朝吹さんの家》、小平恵一《東雪谷の家》、八木幸二《八木邸》、清家清《斎藤助教授の家》(跡地)、清家清《清家邸》、林寛治《ローゼンハイム雪谷》
参加者:15名
ナビゲーター:若原一貴
APサポーター:柏木裕幸
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今回のツアーでは建築家・室伏次郎氏の自邸《北嶺町の家》を拝見し、土地の起伏に富んだ雪谷の住宅地を巡りました。
まず最初に谷口吉生氏設計の《雪ヶ谷の家》(1975)を外から見学。
そして向かった当日のメイン見学先《北嶺町の家》(1971)で、まずは若原先生から室伏氏と自邸について紹介が行われました。
室伏氏が30代の頃に建てられたこの住宅には1970年代ならではのコンクリートの表情があり、坂倉建築研究所入所後プロジェクトで滞在したタイに影響を受けた氏の設計思想とディテールがあまりなくても力強い建築なのが特徴との事。
その後いらっしゃった室伏次郎氏ご本人からも自邸の説明が行われます。
1970年代は日本が成長する希望の時代だけど貧しく、そんな状況の中で個人の領域として自由な場所を求め建てられた超ローコストな自邸は、最初叔父家族との共同住宅だったそうです。原型的空間つまりワンルームと光と風を入れるコンクリートの箱で造られた住宅は家族構成の変化と共に各階の住まい方が変わり、50年住んで分かったいい家、との話に一同期待で胸が高まります。
玄関を入ってまずは1階を拝見。こちらは現在室伏氏の書斎として使われていました。4層を貫く足場ユニットで組まれた外階段を使って2階に上がると、そこは室伏氏ご夫妻のリビング。ハウスインハウスと室伏氏が呼ぶ2階は将来一人住まいとなる事も想定した造りになっていました。床面から33cmの高さで造られたスライド式の窓やオリジナルのキッチン、天井より低く取られた開口など見所が沢山。
3階はご子息の室伏暢人氏家族の住居。こちらは可動式の4階床と吹き抜け、互い違いの階段等が特徴でした。2階と同様にワンルームと付随する箱の間には開口が取られていましたが、よく見ると開口の下部が数cm立ち上がっています。これは建設当時に「ここはサッシを嵌める場所ではない」という意思表示をする為の工夫だったそうです。4階はベッドスペース。室伏暢人氏家族4人のベッドとお子様の机が置かれていましたが、あまり狭さを感じさせない豊かな空間でした。
最後は屋上庭園へ。室伏氏は建設当時22坪という敷地の中で、耐火性があって安値で4層の階が叶うコンクリート造を選んだそうですが、50年の歳月の間で屋上庭園から一望できる周辺の住宅地は殆ど新しくなっているそうです。これは木造住宅の耐久年数の表れなのではないか、等の話には色々と考えさせられる物がありました。
見学を終えて自邸を辞そうとすると、何と室伏氏から全員に著書のプレゼントが。著書を頂いたとなるとやはり欲してしまうのが直筆のサイン。道端で急遽サイン会が開催され、関係者も含め参加者全員名前入りでサインを頂く事ができました。
ここからは雪谷の住宅地を巡ります。
坂を上がって山頂に建てられた《朝吹さんの家》(設計:中村好文)を外から拝見し、今度は下って1996年造の《東雪谷の家》(設計:小平恵一)を拝見。こちらはバブルがはじけて土地の値段が高騰した時代の中で建てられた、今日の狭小住宅の走りとの事でした。
続いて建築家・八木幸二氏の自邸を見学。そして昨年東京国立近代美術館の「日本の家」展で実大模型が展示された《斎藤助教授の家》(設計:清家清)の跡地を見学しました。
《斎藤助教授の家》は坂の途中にあり戦前の基礎を残したまま建てられたそうですが、実はそれは坂の途中というロケーションからの発想であって、合理性とは異なるストーリーとして残された物ではないか?という若原先生の見解には一同納得の表情でした。
《斎藤助教授の家》を後にして向かったのは清家清自邸。こちらを外から見学の予定でしたが、住人の方のご好意で中庭から《私の家》等を遠目で拝見する事を許可して下さいました。これには一同びっくり!住人の方から興味深い話も伺い、満足して清家邸を離れました。
最後は朱色が鮮やかな《ローゼンハイム雪谷》(設計:林寛治)を見学。林氏は藝大を卒業後イタリアに留学、吉村順三氏の元で働いた経歴の持ち主ですが、訪れた共同住宅からはどこか南欧の雰囲気が感じ取れました。
《北嶺町の家》を中心とした今回のツアーでは土地と住宅・時代の関係性を深く考えさせられる、いい機会となりました。
レポート:阿久根 直子(学生インタ―ン)
桑沢デザイン研究所デザイン専攻科1年